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歴史を辿る

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▲ 長篠合戦図屏風(大阪城天守閣所蔵)

日本各地に有力な戦国大名が群雄割拠するこの時代、
奥三河には、山家三方衆と呼ばれる土豪がいました。

そのひとつ奥平氏は、1375年上野国(現在の群馬県)から作手の地に至り居を構えました。
東に今川・武田、西に織田・松平などの有力大名に囲まれたこの地では、
自家の存続のためめまぐるしく従属関係を変えなければなりません。
時には親子が敵味方に分かれて戦うこともありました。

天正3年(1575)、奥平貞昌が徳川氏の従属として
長篠城に入ったことから、歴史は動きだします。
その城をめぐって繰り広げられた織田・徳川連合軍の鉄砲と馬防柵、
武田の騎馬隊の戦いは、斬新さ、合理性を追求した信長と、
伝統に固執した勝頼との激突であり、新時代性と旧世代性との対決でした。

この戦いの勝利の後、奥平家は新城の地に移り城を築き、
新城城主として新城の町の礎を築きました。

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鳳来寺と利修仙人

利修仙人は、山城国に生まれ、現在の峰(鳳来地区)に移り住み、霊木7本杉の1本から鳳来寺本尊となる峯薬師如来をつくりました。その後、百済の国で仙術や仏教を学び、鳳凰に乗って帰国し鳳来寺山中に3匹の鬼を従えて住んでいたといわれています。文武天皇が病にかかられたときには、鳳凰に乗って都に行き、祈祷によって天皇のご病気を治したため、大宝3年(703年)に天皇からお礼に寺を立てられ、この寺を鳳来寺と命名し鳳来寺が誕生したとされています。

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鳳来寺(ほうらいじ)

大宝3年(703年)、利修仙人によって開かれた真言宗の古刹。(真言宗五智教団の大本山)薬師信仰と山岳修験道の霊山として古くから信仰を集め、江戸時代には徳川家康誕生のゆかりの地として幕府の厚い保護を受け、21院坊、寺領1350石という盛大さを誇っていました。

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鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう)

慶安元年(1648年)三代将軍徳川家光は鳳来寺を家康誕生のゆかりの地として祖父報恩のため、東照宮の建築をはじめました。その後4代将軍家綱のとき完成されたもの。国の重要文化財に指定されています。

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仁王門(におうもん)

 鳳来寺の表参道二丁目に楼門があります。両側に仁王像が立っているので仁王門とも言い、また山門とも呼びます。この仁王門は徳川三代将軍家光の寄進によって、本堂と共に建築されたものです。三間一戸の重層式入母屋造りで、鋼板葺(元槍皮葺)朱塗り、けやき材で建築されています。二階には勾欄(こうらん)をめぐらし、前面のかえる股には竹に虎、裏面のかえる股には牡丹に唐獅子の彫刻がされ、いずれも色彩が施してあります。

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長篠城址 (ながしのじょうし)

永正5年(1508年)に菅沼元成が築いた長篠城は、豊川と宇連川の合流点に位置し、北方に人工の塀と土塁を築いた堅固な城でした。戦国の世の常として、今川、武田、徳川にと帰属を変え、天正3年には21歳の奥平貞昌が城主となりました。 この城を長篠の戦いで武田信玄の子、勝頼が父の上洛の夢を果たそうと1万5000の大軍により包囲しましたが、奥平貞昌は500の兵で篭城に耐え抜きました。 名城百選にも選ばれています。

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鳥居強右衛門 (とりいすねえもん)

長篠の戦いで武田の包囲網を危険を顧みず突破し、織田・徳川連合軍の援軍を岡崎の徳川家康に求める使者として奥平貞昌から命ぜられた家臣。その活躍は三河武士の模範として今でも語りつがれています。

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医王寺山 (いおうじやま)

長篠の戦いの武田勝頼本陣があり、山頂から長篠城跡が一望できます。麓には医王寺があり勝頼にまつわる伝説「片葉の葦」が茂る弥陀の池があります。

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大通寺山の盃井戸 (だいつうじやまのさかずきいど)

長篠城跡の北端に接した大通寺山には、盃井と呼ばれる泉があり、長篠の戦いの時、武田方の馬場信房・山県昌景・土屋昌次がこの泉を汲み、別れの水杯を交わしたと言われています。

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設楽原の決戦場 (したらがはらのけっせんじょう)

天正3年(1575)長篠の戦いの舞台となった場所。武田軍と織田・徳川連合軍の総勢5万人を超える兵士たちが、当時東西の勢力の要となっていた長篠城をめぐり様々な戦術を駆使して戦いました。無敵を誇っていた武田軍の騎馬隊に対する織田・徳川連合軍は、「火縄銃」という新たな武器を「馬防柵」と「鉄砲隊」という戦術で組織的に利用し、圧倒的な強さで短期間のうちに決戦を征しました。その時の馬防柵は今も決戦場跡地に再現されています。

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馬防柵 (ばぼうさく)

「馬防柵」は信長が考えだした作戦とされ、戦国時代に最強と恐れられていた武田の騎馬軍団をこの柵の内側から鉄砲で迎え撃ちました。連合軍が築いた馬防柵の丸太は、信長が岐阜から設楽原へ兵士に一本ずつ持ち運ばせたとされています。現在は地元の団体が再建しています。

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信玄塚 (しんげんづか)

設楽原の激戦により村から避難していた村民たちが村帰後散乱していた名前もわからない武者のなきがらを埋葬し塚を築き弔ったところです。当時すでに信玄は没しており戦いには参加していませんでしたが、信玄の威名が武田氏の代名詞だったことがうかがわれます。

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亀山城址 (かめやまじょうし)

応永31年(1424)に奥平貞利が築城したもので、奥平氏5代が居城し、慶長7年(1602)から同15年 (1610)まで作手藩1万7千石(藩主・松平忠明)城郭として栄えました。遺構は本丸を中心に各種の曲輪、土塁、空濠が現存する奥三河屈指の平山城です。 中央には、大正5年(1916)建立の「亀山城址」の記念碑があります。

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古宮城址 (ふるみやじょうし)

元亀2年(1571)に奥平氏監視のために、武田信玄の重臣・馬場美濃守信房が甲州流の縄張りで武田軍の最前線基地として築城。2年後、奥平・徳川連合軍の攻撃により自焼陥落しました。現在も縄張りがほぼ完在しており、城郭ファンにおススメの城跡です。市指定天然記念物の大ヒノキが虎口にあります。

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甘泉寺 (かんせんじ)


1370年臨済宗弥天永釈大和尚により開山され、和尚との関係から室町幕府足利義満から寺領の寄進をうけています。作手奥平氏との関係も深く、長篠合戦の英雄鳥居強右衛門の墓や位牌がまつられています。

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川尻城址 (かわじりじょうし)

天授年間(1375~81)に上野(群馬県)吉井から移ってきたとされる作手奥平氏の初代貞俊が、最初に築城した城。今は城の露木門が復元され公園となっています。

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新城城址 (しんしろじょうあと)

長篠の戦いの結果、織田・徳川連合軍の大勝利に帰したので、奥平貞昌は、信昌と改め、家康の長女・亀姫をめとり新城城を天正4年(1576)に築城しました。

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野田城址 (のだじょうあと)

元亀4年の戦いの際、信玄が鉄砲で撃たれたという話が伝わっています。城内にいた笛の名人、村松芳休の奏でる笛の音に、夜、信玄が聞きほれて堀端に出たところを、鉄砲の名人、鳥居半四郎に撃たれたということです。これが原因かどうかわかりませんが、信玄はこのころから病気になり、この帰路の途中、信州駒場で死んだらしいとされています。

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柿本城址(かきもとじょうし)

井伊谷三人衆の一人、鈴木重時の居城跡です。仏坂の戦いでは、第一の戦場となり井伊領を守るために重時の子、重好が奮戦しました。すぐ近くの道の駅鳳来三河三石では『柿本城田舎そば』をお土産として販売しています。

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満光寺庭園 (まんこうじていえん)

「徳川家康の危機を救った鶏」で有名な曹洞宗の古刹。庭園は書院庭園と庫裡庭園の2庭から構築されています。

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宇利城址(うりじょうし)

文明年間(1469~87)に熊谷重実により創建されたものです。三方を山に囲まれた天然の要害に築城されており、曲輪(くるわ)、土塁、壕、井戸等、山城としての遺構が比較的しっかり残っています。井伊谷三人衆の近藤康用の居城でもありました。